明治から現在まで 石川県加賀を考える。


加賀ッポ根性


 幕末から明治維新にかけて、旧金沢藩は佐幕の立場にあった。激動の中でやむを得ない選択であったろう。旧金沢藩の重臣たちはそれぞれ爵位を得たが、それはただ飾りのようなもので、政治には全く関与する事ができなかった。明治政府が樹立されその後は、政府から役人が送られてきて、彼らの命令下に入ったのである。

 旧幕府重臣たちは、この時のショックから立ち直るのに相当の時間を要する。
一時代は己の天下であったものが、一夜にしてその権力を失ったのだから仕方のないことかもしれない。

忠告社から盈進社へ@


 維新で火の消えたようになった旧加賀藩士は、一時の虚脱状態から少しずつ醒めはじめた。かれらには、明治六年(一八七三)の土佐(高知県)の片岡健吉らの海南義社、翌七年、板垣退助らの愛国公党の創立などが刺激になったようである。

 加賀藩士出身の士族を中心に結成された最初の政治結社は、明治八年の新春、杉村寛正・長谷川準也などを中心に結成された忠告社であった。忠告社員は、一時は全士族を代表して、当時他県人の多かった県庁高官にたいしてある程度の発言権をもつこともあったが、内紛を起こして数年足らずで勢いを失ってきた。
 代わって勃興してくるのが、大久保菊太郎・金岩虎吉らの読書会から発展した精義社である。明治十二年初頭から活動をはじめるが、越前の民権論者杉田定一らと提携して政治運動に乗り出し、国会開設の必要を石川県において説いた最初の政治結社であった。この自由民権論に刺激を受けて国会開設を目標とする精義社に対抗するために、士族救済を具体的な目標にかかげて、遠藤秀景・広瀬千磨らによって明治十三年(一八八〇)四月に結成されたのが盈進社であった。これらのうち、明治二十年代になるまで命脈を保っていたのは盈進社だけであった。
 このように、これらの政治結社は結成の時期には大差がなかったが、その後の展開には栄枯盛衷があり、具体的な活動面においても千差万別であった。しかし、いずれも旧加賀藩士を中核とした団体で、維新のバスに乗りおくれて色あせた加賀百万石の勢威をいかにすれば往時の輝きに復することができるか「具体的には、生活困窮に陥った士族を日の当たる場所に出すにはどうすればよいか」を目的にしている点では変りがなかった。そしてまたこれらの政治結社は、その掲げるスロ−ガン、とった行動、また内部の勢力関係などそれぞれ違っているが、その性格において、共通して認められる大きな特質が少なくとも二つある。そしてその特質は、最後まで残った盈進社(明治二十三年解体)に、もっとも典型的に現われているのである。

 まず第一は、士族中心の政治結社としては当然のことであるが、士族を最上のものとし、明治時代においても士族が当然社会の代表であるという露骨な身分意識である。しかもこの身分意識は、平民にむかって発揮されたというよりはむしろ、薩長系の士族にたいしていだかれた。すなわち、同じ士族でありながら、現実においては薩長系と加賀系には非常な社会的差異がある。この現実にたいして、かれらは反抗するかあるいは迎合するかの言動に出るだけであって、こうした社会的差異を生み出すものが、なぜに薩長系士族にあって加賀系士族にはなかったのか、ということにたいする反省・考究がまったく念頭になかった。いわば、こういう性格の身分意識が基礎になっていたということである。明治期の石川県を考える場合、この感情は無視できないことであると思う。

 士族の政治結社の行動の意味する、いま一つの点はなんであろうか。これも、明治二十二年(一八八九)四月、市制のしかれた金沢市の初代市長を選ぶ市会議員の選挙にあたって、盈進社のとった行動に端的にあらわれていると思う。
 そもそも盈進社は、スロ−ガンこそ国権・国益・民福の拡張増進をはかるためと美辞麗句をならべているが、本来は、維新のバスに乗りおくれた加賀士族の勢威回復を具体的な目標としていた。そのためにこそ、越中原野の開墾とか北海道開拓に異常な情熱を燃やしもしたのである。ところで、この加賀士族の勢威回復というのは、いいかえれば、西南諸藩出身の士族にたいする劣等感の裏返しされたものにすぎない。したがって具体的には、そういった日のあたる士族を中心として構成されている政府や官吏−ひいては県庁や知事以下の高級県官にたいする反感、あるいは逆に迎合という形であらわれる。そしてこのばあい、迎合の面よりは反発的行動が中心になるのは自然の勢いであった。

こうした点から、かれらの言動は、現象的には自由民権の運動と相通ずる形をとる。しかし、それは単に現象のうえだけであって、本質からそうであったのではない。もし盈進社が、本質的に藩閥に対抗する・自由民権の理想に燃える団体であったならば、明治二十二年の最初の金沢市長選で、稲垣派の中心勢力になるというようなことが起こるべきはずはなかったのである。