明治から現在まで 石川県加賀を考える。


明治の終幕

 個人的な言動や感情を中心にする批判運動でなく、組織的なそしてある程度ひろい地盤の上にたつ藩閥政治批判のうごきは、石川県においては、金沢を中心に明治末年にすでにあらわれた。

 立憲政友会石川県支部が金沢に創立されたのは明治三十三年(一九〇〇)であるが、このこと自身が藩閥にあきたらない市民感情のあらわれであった。ところが、創立当時の有力な母体の一つであり、支部創立掟唱者の本多政以(旧加賀藩老臣八家の一つ、本多家の当主)を会長とする金沢実業会は、明治四十一年(一九〇八)にあげて政友会を脱党した。そして金沢実業協会を組織しただけでなく、その五月におこなわれた衆議院選挙には、中立派として立候補した戸水寛人を推して政友会候補を落選させた。

 当時は、直接国税一〇円以上の納税者でなければ選挙権のなかったことを思えば、金沢実業会の脱党が、全盛を誇る県の政友会にあたえた打撃は相当なものであったことがわかるであろう。このように、せっかく苦心して作りあげた支部をみずから脱党したのは他でもない、金沢実業人の政府の施策にたいする不満からであった。
 日露戦争後しばらくのあいだは日本の経済界は好況をみせたが、四十年ごろからは反動があらわれて急速な経済恐慌におそわれた。同年のストライキは百数十件に達し、明治年間での最高となった。こうした情勢であるにもかかわらず、時の第一次西園寺内閣は、陸軍を中心とする軍備拡張のため膨大な増税案を議会に提出した。増税どころか、むしろ税制整理を要求していた金沢実業会は、政友会が期待を裏切って政府に賛成し増税案を可決したことにたいする不満を爆発させたのである。

 政友会の県支部は、この実業会の脱党と中立の戸水寛人の代議士当選で大打撃をうけ、一時は再建もあやぶまれた。が、やがて中央では戸水が政友会に帰属し、地元でほ、本多のあとを金沢市議会議員で石川県会議長を兼ねる錺谷与右衛門が幹事長に就任し、鋭意陣営の立て直しを図ったので、どうにか政友会王国の看板はおろさずにすむことができた。
 しかし、ここにみられる金沢実業会の行動は、今までの金沢財界人にみられなかった鋭い政治感覚を、すでに具備するようになったことをしめす事件であったといわなければならないであろう。

 この空気は、当然ひろまっていく。
 明治四十三年(一九一〇)に石川県知事として赴任した李家隆介は、大正元年(一九一二)の通常県会をやすやすと乗りきる自信があった。しかし経済恐慌のあおりで、金沢はじめ県下の産業界は依然として不況の底にあえいでいた。これを反映して、同党所属の県会議員たちは、かつて中央で増税案に賛成した政友会に所属しても、地方では別行動をとった。三一の議席中の二九が政府先の政友会であったが、二人の反知事派と歩調を一にして知事投出の予算案を大削減し、地租付加税などの地方税の減税をしたのである。まさに、官選知事の面目丸つぶれといわなければならない。

 この二つの事件こそ、時代はもはや明治でなくて大正である″ということを、はっきりと物語ってくれる。いままでは、地方のものがその要求を提出するには、恐る恐る官選知事の鼻息をうかがわざるをえなかった。あるいほ、ツテを求めて中央での藩閥政治家などの袖にすがるのが常であった。それがいまでは、そうした仲介を必要とせずに、堂々と自己の要求を捉出し自分の意志にしたがった行動をとる。おそらく当時の県民も、〃時代は大正という新時代にはいった″との感を深くしたことであろう。

 こうした政治意識の国民的成長がひろくみられるようになったことこそ、護憲運動を全国的な規模で盛りあがらせ、中央においては、あれほどまでに強い権力で守られたかにみえた藩閥内閣を、やがて倒すのに成功することができたのである。