明治から現在まで 石川県加賀を考える。


近代の石川、幕末から明治へ

流血の選挙さわぎ@

 明治二十四年(一八九一)成立した松方正義内閣にたいして、立寮自由党と立憲改進党は藩閥政府打倒の共同戦線をはる野党であった。政府に賛成する与党としては、大成会と国民自由党(立憲自由党の結成に反対したものが中心)があったが、野党よりはかなり劣勢であった。これを憂えた松方首相は、二十五年二月の総選挙を与党が多数を占める絶好の機会とし、内務大臣品川弥二郎から各県知事にたいして、与党候補者の当選に全力をあげるよう指令が飛んだ。明治二十五年の干支は壬辰であるので、世にこれを壬辰の選挙大干渉″といっている。

 たまたま石川県では、岩山敬義知事が病死し後任知事は赴任せずに辞表を出していたので、実際上は警部長、税所篤一らが最高責任者として、県下の選挙に大干渉のすご腕をふるうことになった。
 石川県の自由党系と立憲改進党系は、かねてから犬猿の仲であったが、今度はその対立感情をいちおう水に流して、ともに野党として力をあわせようという空気が生まれてきたのである。自由党の松田書三郎・小間粛らと改進党の河瀬貫一郎・浅野順平らは、ともに民党″の名のもとに結集することとなった。
 これにたいして、政府を支持する与党は吏党″と呼ばれ、石川県では稲垣金沢市長・大垣兵次・神保小太郎らが中心となり、それに、さきに板垣退助らに反対して国民自由党を結成した遠藤秀景とそれに率いられた盈進社の一派が最大拠点を形成していた。明治二十年代になってからの盈進社は、反対党や反対者にたいして言論などの合法的手段に訴えるよりも、むしろ暴力によって屈服せしめようとする傾向が強かった。こうしたことから、すでに明治二十三年(一八九〇)内務大臣から結社を禁止され解散を命ぜられており、公然たる政治活動のできない状況にあった。だが、残党はますます暴力主義的なものになり、遠藤の私党化してかえって先鋭になっていた。当時、自由民権運動の理論的指導者として重きをなしていた土佐の植木枝盛は、明治二十五年一月、三七歳の若さで死んでいるが、前年末に東京の弥生倶楽部での自由党代議士の協議会場へ、遠藤の意をうけた旧盈進社員が殴りこみをかけ、そのとき受けた傷がもとで余病を発したためだとの風評が高かった。こうしたことからもわかるようにほとんど暴力団と異ならない所業が多かったため、警視庁によって東京から追放され、金沢でも県当局は、遠藤一派の行動を厳重に監視束縛していた。
 ところが、壬辰の選挙では遠藤らの国民自由党は政府を支持する与党となり、吏党の中心になって野党の民党を撃破せんとしたのである。ここにおいて県当局は、今までの態度を一変して、旧盈進社員の実行力を利用して選挙に大勝せんとした。官権と暴力が結びついたわけである。血を呼ぶ紛争の起こらないのか、むしろ不思議であった。