明治から現在まで 石川県加賀を考える。


近代の石川、幕末から明治へ

流血の選挙さわぎA

 当時の石川県は第一区(金沢市・石川郡)・第二区(能美・江沼両郡)・第三区(河北・羽咋・鹿島三郡)・第四区(鳳至・珠洲両郡)にわかれ、定数は一区と三区が二名、二区と四区は一名であった。このうち一区は、民党から河瀬・松田が立候補し吏党から大垣と神保が立つ二倍の激戦区となっただけでなく、史党の運動の中核であった遠藤一派は金沢を本拠としていたから、当然のことにこの区の選挙がもっとも激烈をきわめることになるのである。
 当時の衆議院選挙はきびしい条件のついた制限選挙で、満二五歳以上の男子で一年以上同一府県内に本籍を定め住居し、なおひきつづき居住するもののうちで地租や所得税のような直接国税を一五円以上納めていて、はじめて選挙権が与えられた(当時の日本の総人口三〇〇〇万にたいし有権者数はわずかに四五万にすぎなかった)。一区の有権者数は二七二二人であったが、廃藩後は斜陽都市になった金沢では所得税を一五円以上納めるものは極度に少なくて、人口約一〇万のうちわずか三〇数人しかなかった。したがって、有権者は地租納入者の多い石川郡が圧倒的に多く、第一区の主舞台は事実上石川郡の鼻村地帯であった。

 この石川郡へ、日本刀や仕込み杖で武装した旧盈進社員が金沢から乗りこんだ。しかし石川郡の農村は藩政時代から反骨の風があり。このときも藩閥政府の強権に択抗する民党を支持する空気が強く、吏党の先頭に立つ遠藤一派の圧迫に対抗するため、竹槍や鋤鍬をかついだ農民は路上にかがり火をたいてその襲撃にそなえた。また、それを応援し保護しようと、佐野鍵吉ら民党の壮士も金沢からくり出してきた。こうして二月の投票日が迫るにつれて、石川平野一帯は緊迫した空気につつまれていったのである。
 ところが、全国的に吏党の形勢があまり芳しくないのを見てとった政府は、一月二十八日急に予戒令を公布し即日施行した。これによって県と警察部は、二月六日突如として民党の武装をやめさせる措置をとり、違反者を石川郡から退去させたり逮描したりした。本来、予戒令の適用は民党・吏党を区別するものではなかったが、実際は、民党では幹部や有力運動員がつぎつぎと逮捕や退去命令を食ったのにたいし、吏党では一部の下っ端運動員しかつかまっていない。これをみても、いかにこの予戎令が吏党を勝たせんがための有力な選挙干渉手段であったかがわかるであろう。
 民党候補の松田は、松任町の銭湯で入浴中を吏党の壮士に襲われて負傷したのをはじめ、民党の運動員はいたるところで暴行を加えられた。
 かくていよいよ投票日の二月十五日、運動も最高潮に達したが、両党壮士の激突も最悪の場面を迎えた。民党候補河瀬の主宰する北陸新聞社員青野五十八郎らが、数百人の有権者を護衛して投票所へ行く途中、北安田(松任町)で旧盈進社員神谷事大ら一〇数人の壮士に道をはばまれた。神谷は青野の日本刀で背から腹を貫かれて死んだが、青野も頭を割られて重傷を負うなど、乱闘に加わったものほとんどが負傷した。この光景に恐れをなした有権者は、みな後難をおそれて退散し棄権してしまった。
一木村の有権者の護衛にかけつけた民党の佐野と清水音八は、松任町の近くで遠藤一派の八名にとり囲まれて重傷を負い、同じく林源吾は、山島村で太ももを切られ病院へ運はれる途中に息絶えた。
 こうした血なまぐさい光景が、粉雪の寒風に舞う石川平野のあちこちで展開されたのである。民党側の有権者は、ほとんど生命の危険と後難をおそれて投票所へ行くことをやめ、その大部分は棄権してしまった。投票の結果は、県や遠藤らの思惑どおり、吏党の大垣・神保が圧倒的得票で当選して議席を独占し、民党の河瀬と松田は枕をならべて落選した。一区の棄権は三割に近く、他区の棄権とは比較にならない多数であった。そのすべてが民党支持者でなかったにしても、その大部分は、投票日に頂点に達した連日の暴力行為に恐れをなし君子危うきに近よらず″と棄権したものと思われる。

 この壬辰の選挙干渉は、民党・吏党の激突で全国的に血風が吹きまくったが、その死者二人、負傷者数十人という石川県の数字は、高知県(死者10負傷六六)・佐賀県(死者八、負傷九二)
についで、全国第一二番目であった。
まことに、ある意味においては不名誉な数字ではあるが、もってこのときの選挙の凄惨さをしのぶことができるであろう。