明治から現在まで 石川県加賀を考える。


戸水の登場

 明治四十年(一九〇七)九月の県会議員選挙に大勝した立憲政友会は、石川県の政界において破竹のごとき威風を誇った。したがって、翌四十一年五月、西園寺公望内閣のもとに執行された第一〇回総選挙においても、立憲政友会が大勝を博することを疑うものはほとんどいなかった。事実この総選挙の結果は、定数六人中の四人までが立憲政友会がしめたのであるから、その予測は当たったのであるが、その立憲政友会が、もっとも金城湯地として自他ともに許した金沢において、大番狂わせがおこったのである。

 立憲政友会は、もちろん現代議士の山森隆をたてた。そのころ金沢市では立憲政友会に属するものを連合派″といっていたが、渡瀬改札市長・宮野直通市会議長(県会議長も兼ねていた)をはじめ大多数の市会議員、公職者のほとんどは、連合派かまたはその息のかかったものであるから、あえて山森と争うというものもなくほとんど独走態勢で、たとえ他に候補者があらわれても山森の楽勝を信じないものはなかった。ところが、選挙期日がわずか一カ月ほどにせまったころになって、まったく思いがけないところから、思いがけない人物があらわれた。それは、まさに青天の霹靂のごとき登場ぶりであった。その人の名を戸水寛人という。
 戸水寛人は、文久元年(一八六一)老臣本多家の家臣戸水信義の長男として金沢に生まれた。東京帝国大学を卒業してイギリスに留学、明治二十七年(一八九四)に帰朝し三三歳の若さで東京帝国大学教授になった。その主著が「シドゥィック哲学と羅馬法」「春秋時代楚国相続法」などであることからもわかるように、ロ−マ法の学者であった。しかし、戸水の名を世間に高からしめたのは、その専攻学問の故でもまた東京帝国大学教授としてもなく、実に七博士事件″として知られる対ロシア強硬論者としてであった。


 いわゆる七博士の活動は、明治三十三年(一九〇〇)の
清国の義和団事件後の対ロシア強硬外交主張の時期と、明治三十六年以来の日露開戦前夜の開戦論の時期、さらに同三十八年の日露講和条約にたいする反対論の時期の三期にわかれる。第一期は富井・金井延・寺尾亨・中村進平・戸水寛人・松崎蔵之助の六博士であったが、第二期は、松崎がぬけて高橋作衛・小野塚宙平次が加わって、はじめて七博士になった。第三期は、小野塚と建部と代わったが、七博士の数には変わりはない。中村が学習院教授であった以外はすべて東京帝国大学教授であり、その主張ほ世間に大きい影響を与えた。
 そして戸水は、終始そのメンバーの一員として活躍した。ことに第三期における戸水の括動はとりわけめざましかったので、おおいに政府の忌避にふれ、桂太郎内閣の文部大臣久保田譲は、三十八年八月、ついに戸水を休職処分に付したのであった。
 東京帝国大学法科大学教授会は、その処分を不当としてただちに久保田文相に抗議書を提出、京都帝国大学の法科教授会も同様の行動をとった。しかし政府は、この行動を遺憾として大学の責任を問い、東京帝国大学総長山川健次郎にたいして依願免官の処置をとり、松井広告を新総長に任命して、東京帝国大学とまっこうから対立することになった。ここにおいて、七博士全員は辞表を提出する。さらに、法科のみならず全学の教授ほ連名で政府に抗議書を送り、同時に久保田文相の辞職を勧告、政府がそれを拒否した場合は、全学教授の総辞職を申しあわせた。こうして事態は最悪の場面に突入すると、まず松井新総長ほ辞任せざるをえなくなった。ついで久保も、十二月にいたってついに文部大臣を辞し、翌三十九年一月に、戸水の東京帝国大学教授への復職が実現されることになった。そもそもこれは、日本の大学において、大学の自治と教授の言論の自由は時の権力に左右されるべきでないという理念の形成されていく、第一ページを飾る事件であったのであり、その主役を演じたのが戸水であったのである。
 この七博士事件は、戸水寛人の名を日本の津々浦々に響かせ、ことに知識層と青年層からは、一つの理想像と仰がれるまでにいたったのである。この戸水の声望に目をつけ、かれが金沢出身であるところから、きたるべき衆議院選挙に金沢からかつぎ出そうとしたのが、連合派の独占している政界からのけ者あつかいされている非政友の人たちであった。そのかつぎ出しの主役を演じたのは、かつて民党の闘士であった河瀬貰一郎や、横地正呆・
高田九八郎・高島伸二郎ら山森一派に反感をいだいているものたちであった。かれらは主義や政見から山森に対抗しようというのではなく、どちらかといえば、感情的な問題が中心で、県市政界での反主流の立場を早く抜け出したいというところに主眼があったようである。
 かれらは、当時は反主流の立場にあったとはいえ、いずれも県市政界で鳴らした古強者であった。経験にものをいわせて、ただちに手慣れた選挙運動に乗りだした。しかし、戸水がこれらの勧めにしたがって立候補を決意した時期はあまりにも遅く、いかに老巧の選挙上手らが集まっても、戸水は本来地盤をもたない人物であっただけに、新地盤開拓に必要な時間ほまったくなかった。有権者名簿すら入手困難であったほど、選挙期日にちかい出馬であったのである。
 だが、こうした不利を補うはど、戸水の名はいいはやされていた。かねてその学才に感嘆していた資産家篠原譲吉は、選挙資金をひき受けた。また、久田督・市川仙太郎などの金沢在住の学士会員の有力者も、かれの応援に立ちあがった。ことに、短時日でありながらもその運動を盛りあげたのは、当時の金沢の主産業の一つであった絹糸業団体が、総力をあげて戸水のため奔走したことと、いま一つ、選挙権の有無には関係なしに第四高等学

校の生徒がほとんど狂熱にちかい声援をあたえたことである。
 立候補の風聞を耳にしたとき金沢の立憲政友会の幹部ほ、戸水に立たれては面倒と、いちはやく使者をかれのもとへ送った。そして、金沢は山森の金城鉄壁で他のものの当選は絶望であるから、立候補を断念するか、立つならば郡部からのほうが得策であると説かしめた。だが、説得は成功せず、いざ選挙戦がほじまってみると、かれらの予感は現実となってあらわれた。それでも最初のあいだはまだかなり楽観していたが、投票日が近づくにつれて戸水の人気が上昇するので、山森の支持勢力ほ手段をえらばず戸水の運動の妨害に乗り出してきた。とりわけ言論戦では太刀打ちできないのを自覚していたので、戸水派の説演会開催を不可能にするために、劇場をはじめ演説会場になりそうな市内の建物を全部借りきった.やむなく戸水陣営は、兼六園で屋外演説会をひらいて対抗した。しかし、この屋外演説はかえって効果一〇〇パーセントであって、戸水の熱弁と、東京から応援に駆けつけた三宅雪嶺(雄二郎)・中橋徳五郎ら郷党出身の知名士のくりひろげる論旨に陶酔した聴衆は、一万二〇〇〇人にも達したという。当時の金沢の人口が約二万であったことを考えると、ここに集まった聴衆がいかに多数で、いままでに例をみないものであるかがわかるであろう。
 まさに戸水の野外演説は、驚異的な大成功をおさめたのである。
 驚異的な大成功は、なにも野外演説だけにとどまらなかった。五月十五日の投票の結果は、 当選 戸水寛人(無所属)  一六九七票  次点 山森 隆(立憲政友会)  六九〇票と、実に山森の二倍半ちかい大量得票をもって戸水の圧勝に終わったのである。金沢政界で、飛ぶ鳥落とす勢いの立憲政友会の大幹部山森隆は、みるも無残な大敗北を喫したのであった。
 ところで、この結果を目して、非政友の党人が戸水擁立に活躍したからだと説く人が多い。しかし、それほ理由の一部にしかすぎないであろう。おそらく、主義政策によらずにもっぱら権力闘争と派閥感情の対立のみで離合集散をくりかえすにすぎない金沢の政党人にたいして、市民大衆が、かねていだいていた痛烈な批判が、この大差となってあらわれた主因ではなかろうか。なお、このときの全市の有権者数は二八三三人で、四年前より実に一八〇〇余の増加をみせている。この倍増した有権者の大部分が、旧態依然たる金沢の政党人への批判票であったのであろう。と同時に、このときの有権者の増加は、いいかえれば直接国税一〇円以上納入するものの増加をしめすわけであるから、日露戦争後のいわゆる戦後景気に、金沢にもかなり潤ったものの多かったことをもあらわしている。