明治から現在まで 石川県加賀を考える。


近代の石川、幕末から明治へ

忠告社から盈進社へA


 稲垣義方は、最初は忠告社の有力メンバーであった。だが、忠告社員全部が野に下ったのちもただ一人県吏としてとどまり、石川県大属・一等属・富山県上新川郡長となり、明治十七年からは金沢区長を勤めていた。この経歴からわかるように、政府筋に近い能吏との評が高かった人物である。かれを市長に推す有力母体は、区吏の組織やどちらかといえば藩閥政府に友好的な立憲改進党に属する人々であった。
 これにたいする有力候補が、長谷川準也であった。長谷川も忠告社の幹部であったが、やがて野に下って実業界に転身し、銅器会社や金沢撚糸会社を創設して(明治十年)、産業発展に精力を懐けていた。官僚出身でない長谷川の実業人的手腕に期待する人や、当時における反藩閥・反官僚の先頭に立っていた自由党のメンバーが、かれを推していた。

 これまでの盈進社は、金沢における自由党の中核だと自負していた。それにもかかわらずこのたびは、その自由党に背を向けて、官僚の団体である区吏の組織した公平倶楽部と一体となり、政敵立憲改進党と手を握ったのである。その結果は、多年盈進社と争っていた亀田伊右衛門・渡瀬政札・森下森八などの立憲改進党の幹部は堂々と市会議員に当選し、長年のかれらの盟友であった小鍛冶市左衛門・児玉嘩心・平野在直などそうそうたる自由党人は、いずれも枕をならべて落選した。それら多数の稲垣沢の市議の推挙によって、初代金沢市長稲垣義方が出現したのである。

 この盈進社の行動は、主義主張にもとづいたためではなくて、実に権力に尾を振り、個人的な感情と私的な義理人情で行動したためにほかならない。なるほど盈進社の行動は、稲垣派の勝利に大きな貢献をした。しかしその勝利の実を味わったのは、本来の稲垣派のみであって、けっして盈進社ではなかった。この市長選を境に盈進社は二つに割れ、以後、急速に没落の道をつき進んでいったのは当然であろう。

 しかし、これは盈進社だけの歩んだ道ではなく、忠告社以下の士族中心の政治結社は、程度の差はあれほとんどみな同様な経路をたどって姿を消していったのである。いいかえるならば、これらの政治結社は、外部から加えられた条件によってではなく、実に、内部の個人的な感情とか狭い義理人情的な条件によって消長をみたのであった。このことが、注目すべき第二の特質である。

 明治以後の石川県において、これらの政治結社は、たとえば忠告社と三光寺派(大久保利通を暗殺した島田一郎らの党)とか、または精義社と盈進社、あるいは鉄道派と開墾派というように、金沢を中心に興奮の渦にまきこんだ激しい政争を展開した。そしてこれらは、いずれも明治二十年代までの事件であることから、自由民権運動にからむ動きだとするのが通説のようになっている。
 しかし、わたくしはこの考え方には反対である。なるほど、表面からみれば自由民権運動らしいあらわれ方をしている。だが、本体はけっして民権運動ではない。これら一連の事件は、天下の諸藩をあげて脱藩者の大流行期であった幕末・維新の激動期に、日本一の武士数を擁しながら、ただの一人も脱落者をみることのなかった加賀藩の武士たちが、すでに西南諸藩や水戸津などが幕末までに経験してきた津内対立の苦悩を、士族と名称が変わった明治時代になって、遅まきながら体験している姿であると考えるべきであろう。